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百代の夢に 雪ぞ降りける

あらゆる創作作品に対する感想を気ままに述べるだけのブログ

暗記・音読・教養について

  最初から自慢話っぽくなってしまいますが、私は頭はあまり良くないし、教養深い人間でもありません。しかし、記憶力だけは人並み以上には優れているという自負があります。記憶力といっても、その中の短期記憶のことなのですが、まずは簡単な記憶の種類について説明します。

 ①瞬間記憶

 例えば誰かの電話番号を教えてもらったとき、人は一瞬ならその番号を記憶することができます。これを瞬間記憶と私は名付けています。この記憶は数秒程度で消えてしまい、しかも数字七桁分くらいしか記憶できません。

 ②短期記憶

 瞬間的に得た情報を繰り返し脳に刻むことで短期的に物事を記憶できます。この記憶は海馬で蓄積され、睡眠によって必要な記憶と不要な記憶に分別されます。だいたい一ヶ月程度は残ります。

 ③長期記憶

 短期記憶で得た知識を何度も何度もインプットすることで脳がそれを必要な知識と判断し、長期記憶を司る分野へ移されます。この記憶は数ヶ月から一生残ります。混同や障害などでアウトプットは上手くいかないことが多いですが。

 

 さて、他にも色々記憶の種類はありますが、まずはここらを紹介しておきました。

 私は瞬間記憶に関しては人並み以下だと感じますが、短期記憶はそこそこのものだと思います。何故ならば、私は今までほとんどの試験は一夜漬けですらなく朝漬けで乗り越えてきたからです。十回程度文章を読めば3行程度の文章ならば2日くらいは記憶できると思います。これによって朝のちょっとした勉強で中高はともにテストでは軒並み95-100点を取ることができました。脳の海馬は大人になってからも成長するようで、私は大学生になって更に短期記憶の力が増したような気がします。

 しかし、これでは駄目なのです。

 分かりますよね。私はいくら短期記憶にたくさんの情報を詰められるとしても、一週間もすれば平気で覚えたことを忘れてしまっています。これじゃあ知的な人間とは言えないでしょう。私は短期記憶に頼りすぎた結果、長期記憶にストックされた知識があまりにも少なすぎるのです。そのため、通年の法律講義において、前期はSをとっても、後期では前期の分の知識を忘れてしまっているので思うように結果が出せなくなってしまいます。

 こんな人間が将来何の役に立つ?!

 そこで私はこの短期記憶を活かして少しでも知識を長期記憶に残せるよう、一年以上をかけて色んな方法を実践、改良してきました。

 そしてある日、私はある記事に出会いました。それが只管朗読という概念に触れたものでした。只管朗読とは、ただひたすら文章を読むこと。それを百回千回と繰り返すことで体に染み付くように覚えられるというのです。この方法は英語の文章暗記でよく用いられます。英語は正しい発音をすることが大事なのでこれではちょっと危ないんじゃないか? などと思いましたが、そこで私はぴんと来ました。これを概念暗記に使えばいいのではないか、と。

 抽象概念を暗記するのって難しいですよね。商法の名板貸しとは何か、ベルクソンの純粋持続とは何か、美術の綜合的キュビズムとは何か――こんなことをスラスラと他人に説明できる人はなかなかいないでしょう。この解決策としてよく挙げられるのは、丸暗記はせず理解をしろ、理解をすれば覚えられる、というものです。私はこの方法には断固として反対したい。何故ならば、人間はいくら理解しようが忘れるものは忘れるからです。理解すれば覚えられる、そんなのは綺麗ごとであり、過信であり、傲慢です。私はいくら美少女ゲームや映画で感動しようが、忘れるものは忘れます。

 じゃあ、どうすればいいのか。

 音読です。只管朗読です。

 ひたすら文章を読んで一字一句丸暗記してしまえばいいのです。理解は後から勝手についてきます。レミニセンス効果については先日お話しました。抽象概念なんてものはそもそも一日で理解しようと思うのが間違いです。最初は理解できなくても、音読を続けて文章を覚え、それからも何日も何日も音読を続け、ある日それが理解できるようになっているのです。生活の実体験のうえでその知識を理解することができればなお良いです。理解して暗記、ではなく暗記して理解、の方が多くの知識を吸収できます。最初から理解しようとうんうん悩んでたら先に進まないですからね。

 さて、音読の効用はこんなものではないです。

 音読のすごいところは、文章を一字一句しっかりと暗記できることです。文章を読むだけではなかなかこうはいかない。

 さて、文章を一字一句覚えるということがどこで役に立つかというと、それは引用です。明治大学斎藤孝教授は著書で引用をする力がその人の教養を決めると言っています。例えば、最近のライトノベルはパロディが多い作品が増えています。パロディが上手いとその元ネタを知っている人からは「この作者はなかなか分かっているな」と思われます。下手な人は「寒い、つまらん」とSNSや匿名掲示板で叩かれまくるでしょう。さてさて、昔から引用をできる力というのは非常に重要なものと考えられていました。寺子屋なんかでは漢文の素読を行っていたため、色んな漢文をそらで言える子が多かったそうです。

 引用する力の条件とは、正確に記憶していることと深く理解していることだと私は考えます。詩や小説の文章なんかは助詞の一つでも違えば一気にリズムが崩れることがあります。これではいけません。リズムを理解することは文章を書くときにも役に立ちます。リズムが悪い文章は読んでいて苦痛ですからね。それに深く理解していることが必要なのは、もはや言うまでもないでしょう。なんか良い文章ないかなあ、あ、じゃあこの本から引用、コピペっと・・・なんてやっているようでは下手な引用から抜け出せることはありません。インターネットの普及により、情報検索時代が到来していますが、これも考え物ですね。

 ここで逆説的に考えてみたいと思います。その人にその文章を引用する力が備わっているならば、その人はその文章に対して正確な記憶と深い理解を持っている、と言う事ができます。つまり、その人には知識の土台があるということです。こうなるともう最強です。何故ならば、新しいアイデアや改良というものは確かな土台があって初めてできるようになるからです。0から1を生み出す能力というのは99.999%の人間には不可能です。0から1を生み出した人物って誰か思い浮かびますか? 私はニュートンとかアインシュタインくらいしか瞬時に思い浮かびません。皆さんが0から1を生み出したと思っているようなアイデアでも、実はあらゆる知識の土台がもととなってできあがっていることがほとんどなのです。そのため、私たち凡人がやるべきなのは、やはりしっかりと知識の基礎を固めて、それを改良できる力をつけることでしょう。和歌や短歌を千首万首も覚えて引用できる力があるならば、それを改良して自分の歌を作ることだってできるのです。小説だって、美術だって、音楽だって、科学だって同じようなものではないでしょうか。現代美術はなかなかに理解されにくい分野ですが、抽象画が生まれる流れをしっかりと勉強して知識の土台を作ると楽しめるようになります。夏目漱石だってラノベみたいな文章だって言う人もいますが、あらゆる土台となった作品に触れることで、漱石ってなんて教養深い人間だったんだと気付くことがあります。

 楽しむためには、知識の土台を作ることが大切です。サッカーも野球も同じ。戦略や選手の個性を知らないで深く楽しむことはできません。そのためにも記憶の理論や音読などの方法論を駆使して、たくさんの知識を身に付けてください。人間は知らないことはなかなか認知できませんが、知っていることには細かいところまで目が届く生き物です。人生を充実にしたいならば、深い教養を。

 それでは今回はここまで。書きなぐりの文章なので推敲してません。ごめんね。

 

・私のブログで語られる持論は科学的な裏づけは一切ありません。参考にしたり参考にしなかったりしてください。科学知識についても書きなぐりの文章ゆえに間違っているかもしれませんがあしからず。何せ、私にはまだ引用する力が備わっていないので。今回は自分を戒め、奮起させるための動機付けに記事を書かせていただきました。

 日本では昔から読書法というものが持て囃される風潮にあります。どこの国もそんな変わらないのかもしれませんが、特にここ近年では自分の読書法がまるで万人にも正しいとでも言わんばかりのハウツー本が増えていることは否定できません。一番多いのは速読でしょう。しかし私は速読には否定的な立場を持ちたい。最近の認知科学的研究では速読と理解度は反比例する関係にある、などとも言われるように、どうも速読は嘘くさい。そのような印象が拭いきれません。そもそも速読程度で身につくような知識など、本当に必要などと言えるでしょうか。速読のハウツー本ではよく本のエッセンスは数%しかないなどといわれますが、そのような理論が通ずるのはそれこそ速読のハウツー本のような薄い内容しか持たない、いわば読む必要性の低い本なのではないでしょうか。もちろん偏見やバイアスに操られないように速読に関する本は多く読ませていただきました。しかし、この中の60%ほどは明らかにその効果を誇大しているとしか思えない、読者騙しの本だと感想を抱きました。中には速読の万能性を否定したうえで、速読の構造把握性を強調するような内容のものがありました。これには私もおよそ肯定的な立場であります。名付けるならば下見的読書です。その本が本当に読む価値があるかどうかを判断するための速読と言えば大意は掴んでもらえるでしょう。やはり、速読にはそのような有用性があっても知識を身につけるための速読というものは万人には習得できない、というのが私の持論です。

 近年、日本人の読書量が減っているという話はニュースや新聞に触れている人ならば誰しもが聞いたことがあると思います。小学生中学生の間は読書をする子も多いようですが、高校生になると本を月に一冊も読まないような生徒がかなりの割合を占めるようです。これは当然のことといえば当然です。昔のように娯楽が非常に限られていた時代とは違って、今は細分化多様化が進んでいます。本を読まなくてもスマホでいくらでも暇つぶしをできる時代です。しかし、大学生のような高度な知的教育に触れる層が全く本を読まないというのはかなりの問題を含んでいます。自分の専攻している学問の原典をあたるとしても、最新の論文を読むとしても、読書量の少ない人間は総じてそこに書かれている抽象的な概要を掴むことはできても、細かい論理を追うことはなかなかできません。更にそういった専門分野だけではなく様々な読書体験を積んで幅広い視点や教養を持たないと、その専門知識を上手く運用する知恵に欠けてしまいます。ここらへんは池上彰さんの教養論に触れていただけるとその恐ろしさがよく理解できると思います。日本人に欠けてるものはやはり向上心と勉強量です。よく日本人が言う言葉に「学校で六年も英語を話しているのに全く話せるようにならない」というものがあります。こんなことは当たり前の話なのです。何故ならば日本において英語の学習時間というものはいくら6年といえどもその密度が非常に薄いからです。言語をナチュラルに理解できる最初のステップは百万語を読むことから、などと言われますが、日本の教科書の総単語数は中高併せておおよそ二万語程度でしょう。しかもその全てを授業内ではやらないと思います。こんなことで英語をつかえるようになるわけがない。しかし、悪いのは日本の教育制度ではありません。普段英語を家や図書館で勉強しない私達にあるのです。なんでもかんでも学校で教えてくれるというその態度が日本人の勉強に対する怠慢を生んだのではないでしょうか。大学生になってもそういった精神のままでいる人をよく見かけます。たった九十分十五回の講義でその科目の何を分かった気でいられるのか、私には不思議でなりません。大学というものは受身の態度で学ぶのではなく、積極的な学習意欲が必要な場所です。分からないところがあれば教科書や原典を確認する、詳しい友人に教えてもらう、教授に質問をする、このような選択肢があるでしょう。それにも関わらず、そのどれも選ばないで講義の愚痴をもらすだけ、そのような人が周りにはいないでしょうか。

 ・・・と熱くなってしまいましたが、私も十分実践していることではない故に、猛省する日々を過ごしています。今日の主題は私の読書法を紹介したいというものです。もちろんこれは誰にとっても正しいというわけではなく、本当にただ紹介するだけです。そもそもハウツー本に書かれている内容は鵜呑みにするべきではなく、ところどころを参考にするくらいが最適なので、そこは分かってもらえれば嬉しいと思います。

 

 私が実践している読書法は大別して三つあります。

 一つ目は反復的読書法と名付けましょう。これはかなり手間のかかる読書法です。皆さんはエビングハウス忘却曲線というグラフはご存知でしょうか。詳しい説明は省きますが、なかなか信用しがたい理論であるにしても、そのエッセンスは掴んでおくべきです。それは、人間は一度の学習で物事を記憶できない、ということです。

 では方法の説明をしていきます。まずはノートを用意しましょう。ルーズリーフでも結構です。そこに自分が読む本のタイトルを記入します。ここで三百ページの本を読むと仮定し、三ページを一単位として扱うことにします。一日に読む内容はたった三ページだけです。これでは一冊を読み終えるのに百日もかかってしまいます。しかし、それでいいのです。まずは一日目、三ページまで読み終えたらノートに『日付 タイトル ~3P』などと記入します。そしてその横に『A B C D E F・・・・』とアルファベットを書いてください。そのアルファベットの意味するところは、その日に読んだぶんの復習日程をあらわすものです。これは事前に決めてください。例えば、『A=当日の夜 B=翌日 C=三日後 D=七日後・・・』といったように個人個人で最初に決めておいてください。まず最初に三ページを読んで、ノートに上記の記入をしたら、当日の夜にもう一回同じ部分を読んでください。そして読み終えたらAの部分を二重線なりで消してください。翌日、また同じ部分を読み終えたらBを消してください。こうして、一度読んだら同じところを二次関数的に反復していくのです。最初にも言ったようにこれはかなり手間のかかる方法です。あまりに一日に多くの分量を読みすぎると一年後には泣くことになります。それ故にこの読書法を試すのは自分の中でバイブルとでも言えるような本だけにしてください。一年に三冊ほどで結構でしょう。例えば旧約聖書新約聖書仏教経典のような宗教的な書物や、憲法民法刑法などの重要な基本書、更には哲学書のようなものもいいでしょう。あなたにとって一語一句が重要な本だけを設定してください。この方法では復習による記憶定着とレミニセンス効果による内容理解を目的としています。レミニセンス効果もまた詳しい説明は省きますが、最初は理解できなかった文章も日を置くと理解できるようになったというような体験は皆さんにもあるでしょう。

 二つめはノートを作成する読書法です。一つ目の方法で用いたノートの利用法ではありません。ここで使うのはルーズリーフがよいでしょう。まずはルーズリーフにその日の日付とおなじみのABCDEFG・・・のアルファベットを記入していきます。この読書法を行うにあたり対象とする本は、あなたが細かい知識までしっかりと記憶に定着させたい本です。例えば語学の単語帳や参考書、各種教科書、哲学書などです。まずは本を読んでいきましょう。何ページ読んでも構いません。しかし、本を読む上でしっかりと文章の論理構造や書いてある意味を把握することに努めてください(単語帳などはそのような必要はありませんが)。自分が必要だと思った知識や一文をルーズリーフに書き連ねていきます。そのノートに書き写した内容を今度は反復的読書法で復習するようにするのです。一つめの読書法よりは手間がかかりませんし、その本の細かい知識を確実に記憶に定着させていくことが可能です。ルーズリーフの管理だけは徹底してください。しっかり日付順にファイリングしておくのです。そこに書かれた知識はあなたにとって宝物であると考えてもらって構いません。

 三つめは要約読書法と名付けます。ノートは特に必要ありません。ただ読書をする場所は重要です。なるべく人がいない、独り言を言っても怪しまれない場所にしてください。ここで対象とする本は下見的読書などで自分が読む価値があると判断したハウツー本や新書などです。この読書法は見出しごとに(およそ3-5ページ程度)その内容を自分で要約して、それを誰かに教えるようにしゃべるというものです。一見ばかばかしいですが、これが実に効果があります。更には要約の力がつくかもしれません(正しい要約をすることができればの話ですが)。

 

 さて長々と話をさせていただきましたが、今回の読書法はどれも「自分が教養や知識を身につけるうえで一回の読書では足りない本」を対象としています。小説や漫画は分割的に読んでいくとテンポが悪くなりますし、やはり自由に読んでいただくのが一番でしょう。小説はストーリーというものがあるので、それを把握しながら一度読めば忘れることはあまりありません。忘れたらもう一度通読すればいい話です。

 

 それでは今回はここで終わりとさせていただきます。また次からは適当な作品レビューをさせていただく予定です。

今週観た映画

 昨日は七人の侍を見たという話をしましたが、今週見た映画を一言コメントつけて載せていきます。

 

ショーシャンクの空に

 

 これは映画知識のない私でも観たことがある作品です。無実の罪で終身刑を言い渡された主人公が檻の中で生活する話です。屋根の上でビールを飲むシーンなど象徴的な場面が多く、最後のカタルシスもあってか満足度の高い映画だと思います。映画通の間ではこの作品は挙げるまでもないから話題に出ることもあまりないようです。

 

風と共に去りぬ

 

 これも有名な作品です。約4時間ある映画なので夜通しで観ましたが、スカーレット・オハラの壮大な人生を描ききるにはこれでも短いのではないかと思うくらい濃い話でした。古い印象は拭えないですが、このような古典的作品を嗜むのも良いと思わされましたね。

 

・春琴抄

 

 山口百恵が鵙屋の娘春琴を演じています。谷崎潤一郎の小説を原作とする映画ですね。原作に比べて少々チープな印象が拭えません。春琴に火傷を負わせた犯人をあえて描写しているところとか。終わり方にしても谷崎が掲げたテーマとはどうやら違う方向性を目指したようです。

 

ニューシネマパラダイス

 

 映画にまつわる映画です。この作品は名前だけは知っていましたが、ようやく観ることがかないました。聴き取りやすいイタリア語で語学の勉強にも向いていると思います。ラストの演出には思わず涙が出てしまいました。見終わった後も心にジーンと何かが残るような温かい映画でした。

 

タイタンの戦い

 

 2010年版ですね。CGがちょっと安っぽくて映像に関してはあまり満足度は高くなかったです。

 

・ミッドナイトインパリ

 

 こちらはむしろ映像はとてもいいんですが、脚本がおざなりな気がしました。私は印象派絵画が好きなので冒頭のモネが睡蓮を描いたという場所を映しているところは非常に興味深かったです。途中ではなかなか個性的なキャラをしているダリが登場します。ちょっと横道にずれますが、この前六本木でダリの回顧展を見に行きました。ダリは人生の中でいろんな絵を描いています。シュルレアリスムは有名ですが、他にはキュビズムも描いているし、面白いことに金細工のデザインまでしていたそうです。後期には原爆の凄まじい威力を見て、それに関する絵を何点も描いています。一人の画家にも様々な時代があると考えさせられた時間でした。

 

 これに七人の侍を含めると7本ですね。一日一本ペースですが、できればもっと時間を作って色んな作品を見たいですね。映画はそれこそ数え切れないほど存在しますから。新作も古典も含めて色んな作品に触れて自分の感性を磨いていかなければなりませんね。これからの目標です。

 最近、映画鑑賞に興味がありまして、定額有料配信サイトやレンタルビデオなどを利用して色んな作品を観ています。映画に対する造詣みたいなものはなくて、全くの素人です。常識レベルの作品すら全く知らないなんてこともあって、素人以下といってもいいかもしれません。それでも最近映画に興味を持った理由としては、2時間から3時間程度の長さで一つの話を纏めるこのメディアに強い関心を持ったからではないでしょうか。俳句や短歌も定型という制限があってそこに自分の表現したいことを無駄なことは削りながら強調させていきます。きっと映画も描いてみたいあれやこれを苦心の思いで2時間程度にまとめているんだろうな、と考えると自然とレンタルビデオ屋に足を運んでいました。

 昨日は黒澤明監督の七人の侍を観ました。日本人ならば知らない人間は誰もいないくらい有名な作品ですが、昨日までどんなあらすじかも知りませんでした。

 この作品を観て一番驚いたところは、観終えたときに再生時間を見て3時間半もあったことに気付いたことです。「こんな長かったの!?」と驚いてしまいました。それほど3時間半が一瞬に感じられるくらい娯楽作品としても面白かったのです。今まで黒澤明監督というと難しくて平凡な人には理解できない作品を作るのかなと思っていましたが、それだけではなく純粋なエンターテイメントとしても一流だと分かって驚愕する他ありませんでしたね。60年以上前の映画が古典の眼鏡をかけて見ずとも楽しめるとは異常なことだと思います。

 ちょっと調べてみるとこの作品、白黒映画だからこそ色々な工夫が施されているようですね。ラストの雨の決戦、あそこで降っている雨が白黒でも分かりやすいように墨を流していると聞いて、なんでそんなことが思いつくんだと笑ってしまいそうでした。

 そういえばこの前中谷彰宏さんの本を読ませていただいたのですが、中谷さんは大学在学中に色んな映画を観られたそうで、黒澤監督の映画もたくさん観たと書いてあります。しかしある日、黒澤監督について書かれた本を読んだら自分はなんと浅い理解をしていたんだと気付いたそうです。演劇科で映画の勉強をされていた中谷さんですらこうなのですから映画素人以下の私がこの作品を一回見ただけで何を理解できるんだと思いました。これからの人生で黒澤監督の映画は何回も観て、その度に新たな発見をしてみたいな、とそんなことを考えていました。

自己紹介

 これで何回目になるかも分からないブログ作成ですが、日々出会うあらゆる創作作品に対する自分の意見を載せる場所として用いたいと思います。美術館で見た絵画だったり、映画だったり、文学やその他の小説、または美少女ゲームなども対象にしていきたいと考えていますが、特に誰かに見て欲しいというわけではなく、完全に自己満足として記事を書き連ねていく予定です。時には自分が生活するうえでふと感じたことなども日記として残していこうかなとも考えています。高校時代文芸部で俳句や短歌をやっていたので、それを載せたりすることもあるかもしれません。

 それでは最初に紹介したい作品は2006年にPULLTOP様から販売された美少女ゲーム遥かに仰ぎ、麗しの」です。この作品は私が触れてきたあらゆる創作作品の中でも最も衝撃を受けた作品の一つで、今でもその衝撃を忘れられずとても大切な作品として心の中に残り続けています。

 簡単なあらすじを紹介させていただきます。

 主人公の滝沢司は就職先が決まらずに悩んでいたが、伝手でとある女子校の教師を務めることになります。凰華女学院、それがその学校の名前です。日本でもトップクラスの家柄の子女が通う、いわゆるお嬢様学校というものです。しかし、実際にそこへ訪れようと凰華女学院行きのバスに乗り、目的の場所で降りるとそこには緑に囲まれた一本道が続く寂れた光景が目に広がるばかりでした。実は、この学校には秘密があり、それを解決するために主人公は奔走することになります。

 

 ネタバレを回避するために曖昧な紹介に留めておきました。次からは空白をあけてネタバレの入った作品のレビューをさせていただきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この作品のテーマとして一貫しているのは「家族」です。凰華女学院という箱庭に閉じ込められたお嬢様はそれぞれの家族問題を抱えています。梓乃ルートは違うのでは? という反論もありそうですが、これも主人公の血縁の問題に立ち向かおうとする話なので、創設的な意味での家族というテーマに当てはまると思います。こじつけでしょうか。

 さて、主人公は彼女たちをこの鳥籠から救い出してあげたいという気持ちを持って、彼女たちに真摯に向き合います。そんな彼女たちも主人公の心に惹かれ、次第に双方恋に落ちていくのです。これはどのルートも同じです。まるで絶望の中からの共依存ではないか、と思われそうですが、主人公とそれぞれのルートのヒロインはそんな上澄みだけの関係ではなく、しっかりと心と心で繋がっているということが細かい描写からも分かるかと思います。そう、細かい描写です。この作品では物語の大筋を追うのもいいですが、何より主人公とヒロインとの会話を慎重に大切に聴いてもらいたいと私は思うのです。この作品(本校編に限ります)は一種の演劇作品として抜き出しても成り立つのではないかと思うほど登場人物の台詞とそこに込められた心情に重きをおいています。決して表面の意味だけを捉えていてはだめです。この台詞に込められた登場人物の思いを斟酌してこそ、この作品は美少女ゲームという垣根を越える深みを持った作品として存在しうると考えています。

 

 この作品については語ると長くなりすぎてしまうので、まだ論旨も曖昧なままですがいったんここで切らせていただきたいと思います。また時間があれば同作品について意見を記させていただく予定です。